僕は大学生の頃に五木寛之の「青春の門」を読みはじめ、読書の面白さを知った。
93年に10年以上ストップしていた物語が「挑戦編」として再開した。当時大学3年だった僕は主人公の信介と同年代ということもあり(時代背景は大きく違うけれど)、共感を抱きながら夢中で読んでいたのだった。
「挑戦編」は北海道の江差という小さな町が舞台となっていて、僕は大学卒業後この町を訪れ、物語を視覚化するように歩き回ったのだった。これって今でいう聖地巡りってことだろうか。物語で登場するジョンという外国人が信介にアドバイスするシーンがとても好きで何度も読み返しながら江差を巡った。とりあえず外国を見てみるべきだ、というセリフ。その後いろいろと外国を旅するきっかけを作ってくれたようにも思う。
そして再びこのシリーズはストップしてしまい、僕も次第に物語を忘れかけていた。そんな頃に再び再開というニュースがあり、2年前に「風雲編」として出版されたのだった。「挑戦編」を読んでいた21歳の僕は47歳になっていた(長すぎる!)
「風雲編」ハードカバーの新刊を買ったのだが、「挑戦編」の内容が忘れかけていたため「挑戦編」を再読してから読みはじめた。なのでつい先日から「風雲編」を読みはじめたのだった。
すると、まあ当然といえば当然なのだが、物語は僕が21歳の頃に読んだ江差の場面から数日しか経過してない。信介も20代のままだ。同じ年だったのに僕は20歳以上も年上になってしまっているのは何だかズルい気がする。どう気持ちを整理して読んでいいのかさえ最初は分からなかった。しかし読み進めるうちにあの頃の自分の気持ちが蘇ってくるようで、それは同時にとても新鮮なのだった。新鮮といより忘れかけていた感覚ということだろうか。かといってあの頃のように無鉄砲に行動できるわけでもないので、この思いをどのように消化すればいいのだろうか。もちろん写真という表現には何かの形で役立つのかもしれない。あの頃はカメラもやってなかったのでこれは僕にとっての新たなるステージということだろうか。と、いい具合に解釈しながら読み進めている。
このシリーズのハードカバーは手触りだけでなく挿絵があるのがいい。挿絵一つで本の世界へぐっと入り込む想像力を与えてくれる。そして立派なボックスカバーまでついている。今ではこんな本みたことない。
後日、昔の「青春の門」もハードカバーで読み返してみたいなあと思い、「放浪編」のハードカバーをネットの古本屋で購入。すると数日後、広告と新聞で丁寧に包まれた放浪編が送られてきた。本には薄いトレーシングペーパーのようなカバーもついていた。初版本だ。「放浪編」の舞台である北海道から送られてきたというのも感激。きっと大切に保管されていたのだろう。かなり雑とも思える挿絵がこの時代らしくていい。
本は新たなる世界への入り口。