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川上 信也

シスレーにおもうこと


数年前から知らない街へ行くたびにその街の美術館を訪れるのが僕のささやかなる趣味のようになっている。今年も様々な絵を見てきた。ありふれている、当たり前すぎるとか言われそうだけれど、僕は印象派の絵が大好きだ。風景画が最も輝いていた時代、光を追い求めて様々な場所に足を運び、時には村にこもって自分の表現を追及してゆく、そんなスタイルから生み出される風景画の数々は理屈抜きに感動してしまうし(もちろん何とも思わない絵もあるけれど)、その人が見ていたその時代の風景の風が感じられるというのは時代を飛び越えた快感だったりする。

 その中でもシスレー。印象派が好きという人の中でもそれほど知れらていないような気がする。数年前関西で見たピサロ展や福岡での印象派展でも、何だか隅っこにひっそりと展示されていたような感じだ(隅っこではなかったとは思うけれどイメージとして)。そしていつも思っていたんだけど、このシスレーという画家の絵ってほんといいなあと。それを毎回思いながら毎回隅っこのイメージなのだ。先日行った「ひろしま美術館」にもシスレーの絵が一枚だけあったけれど、これも何だかひっそり展示というイメージだった。そしてやはりここでもシスレーってなんていいんだ!と感動してしまったのだ。「サン・マメス」、おそらく何てことのない川原の風景を描いているんだろうけれど、川面の繊細な表現、ピンクが混ざっている青空、普段は邪魔者扱いであろう雑草の描写、遠くに見えるかわいい街並み、静かだけれど味わいのあるこの風景、毎回地味でありながら迫ってくる風景に釘付けにされてしまう。

先日とある忘年会で印象派が大好きという方とお話しする機会があり、僕がシスレーが好きだというと、「シスレーはほんといいんです、ものすごくいいです」とシスレーの良さを熱く語っていただいたのだった。おー知っている人は知っている!ととてもうれしい気持ちになった。

そして昨日読んだ赤瀬川源平の本にもシスレーが登場し、とにかくシスレーが好きだということを熱弁されていた。それはまるで山下達郎や村上春樹がビーチ・ボーイズのすごさを日本に伝えたような感じで、読んでいてとても痛快だった。

なのにこの世間の扱いは今でも印象派の隅っこの方のような扱いだけれど、それが控えめな性格であったというシスレーらしいともいえるのかもしれない。終生印象派の画法を貫き、散歩できる範囲で絵を描き続け、特に有名になることなく経済面でも苦境が続きながらこの世を去ってしまったシスレー。亡くなった一年後から一気に評価されてゆく。

風景画が一気に華開いたこの時代、単なる印象でしかないと批判されていた印象派の画家たちは、自分の表現を追及し、光を求めて風景を描いていった。

僕は風景写真を作品として撮り続けているけれど、はっきり言ってシスレーのように同じスタイルを続けるなんてことは無理だ。無理だからすごいと思うのかもしれない。ただ、風景写真という分野は光や風と向き合いながらその肌ざわりみたいなものを表現していくものだろうと思っている。その点でこの時代の人たちから学ぶべきものはとても多い。

今の時代、風景写真関係の雑誌はどれを見ても(もうめったに見ないけれど)コンテストだらけだ。時には対決なんて言葉も出てくる。何で誰かとの対決姿勢で風景と向き合わなくてはならないのだろう。もちろん上手くなろうと多少の競争は必要かもしれないけれど、それを全面的に出しておきながらあたかも自然と一体となって向き合っているような内容にはとても違和感を覚えてしまう。風景写真愛好家たちが各地で様々なトラブルを起こして評判が悪くなっているのはおそらくこういったことが影響しているのではとも思う。

同じ風景との対峙でも、シスレーの世界とはほど遠いところにある今の風景写真の世界。せめて僕はこの時代の画家たちにように、ひたむきに風景を追い求めながら、熱い心を持続させながら、時には様々な作品に刺激を受けながら風景を見つめていこうと思っている(難しいことだけれど…)

ということで、今年のスケジュール帳には先日「ひろしま美術館」で購入したシスレーのポストカードを挟んだ。シスレー、やっぱり好きだ。

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